ひたすら音づくり模写 一、幼少年時代 2

このようなある日、父が畑から持ち帰った芋の中から新しい葉の芋が見つかった。

それを畑に移植したところ、なんと三ヶ月という短期間で食べられたそうです。

そのことが、隣近所や村中の評判となり、この芋は「又吉芋」と呼ばれるようになったそうです。私が学校に出るようになってから、同級生と喧嘩するたびに「ヤナ又吉芋ひゃー」と言ってからかわれたので、何か恥ずかしい悪口だと思ったものです。

とにかく前記の場所で不幸が続いたこともあって、近くの借家へ移りそこで母が豆腐作りをはじめました。

私は相変わらず病弱で、よくおできができたので、家主の爺さんに焼き針でプスーと焼かれた怖い思い出が、かすかな記憶として残っており、現に私の額には当時の苦戦の傷跡が残っております。その方の奥さんは、私をとり上げた産婆さんで、時折病弱で痩せ衰えた私の一物を見て「真栄ムノーコーレーグース小ヌグトーシガ ヤコー立チューガヤー(真栄の物はコーレーグースのように小さいが、役に立つだろうか)なんて冷やかしていたそうです。

父は 今に見ておれよ と言って私を励ましたとの事です。

四歳になった頃、母は豆腐屋を辞めて、行商を始めたようです。そのために私は運天小のウサ小という子守姉さんに預けられた。

七歳の頃、母の実家の前に引き寄せられ、そこに初めて自分たちの家が建てられた。約三年に及ぶ行商を辞めて、その場所で母は「一銭マチヤ小」をはじめたのです。ここは喜名番所の北東、喜名部落のはずれの街道沿いですので、難所多幸山の入口として、のちになると結構繁盛しました。他方、父は農業をしながら行商をはじめました。一斗缶二つの中にはいくら石油が入っていたか分からないが、北谷村の野国から嘉手納、読谷山村の楚辺、大木あたりまで、毎日場所をかえて売り歩いていたようです。その稼ぎで子豚一頭、乳用の山羊一匹、ウサギ二匹を買ってきました。幼い私には二匹のウサギが大変なプレゼントで、それを大きく育てるのが夢でありました。行商をしながらも、父はよくカエルをとってきたり、たまには野鼠をとってきて調理をして私に食べさせてくれた。

たまたま父に連れられて田園に行くときなど、巧みにカエルをとるものだから、その要領を覚えてしまい、カエルとりは誰にも負けなかった。とにかく父がこしらえたカエル料理やネズミ料理の栄養で、病弱であった私も人間らしく成長したものと思います。


続く

胴巻屋

選りすぐりのヴィンテージ〜名作三線と、手作りの胴巻を扱っています。著書「古三線に魅せられて」

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