元々三線には、いわゆる 銘 の無いものが多いことを、皆さまもご存知のことと思う。
名器と言われた名高い三線でさえ、銘は後から入れられたという物もあり、その多くは、元々無かったのだ。
では何故?と考えたことはあるだろうか。
沖縄の聖地「御嶽」とされる場所を訪ねた方はお分かりと思う。その場所には目立つものは無く、ただただ岩や木々が生い茂るかである。
そこに沖縄の神聖を見なくてはならない。
琉球人はもともと、自我というものが少ない。
私がこれをやった 私がなし得た
俺が勝ち取った 他所の物を奪い取って自分のものとしよう
そういった勝ち負け根性や、戦いの意識が低いのである。
そんなことよりも
物を分け与えること(かめーかめーオバァがその例。琉球人のDNAが引き継がれている証拠といえる)
穏やかで、明日のことを心配することなく今を生きる精神
人が集まると構わず踊る性質
が根っこに持っている。
それは過去の文献や記録を見れば明らかである。
よって聖地も、自然信仰を表している。
見えないが 確かにそこに 在るもの を神とする。
小さな岩場に集まり、捧げ物をし感謝する。
岩に文字を彫り込んだり 名前を書いたりする必要がない。
なぜなら、それは 感じる物 だからである。
信じようと努力する必要もなく、ただそこに在る ものを信仰する。よって、何かを細工する必要は無意味であった。
その 感じる 世界が根付いていたので、琉球人の信仰と生活は一つであったのだった。
おもろそうし にはその精神性が書き留められているのが特徴であると私は受け止めている。
解読して意味を成そうとする必要が、本当にあるであろうか。
感じる ということこそが、真実であったのだ。
その精神は三線にも同じことが証明されている。
全ての三線に銘を打つ必要が無かったのは、それは自然に生み出された三線であるからであろう
−歌と三味線の昔はじまりや犬子ねあがりの神の御作−
と謳われているように。
だから、ヨーゲー三線と言われた歪みのある作でさえ、良く鳴る三線といって、名器として語り続けられたのである。
しかし、今、このうちなー精神が無くなってきているように思う。
美作も、歪んだものでも、材の善し悪しに関係なく、その生み出された物に対しての敬意を忘れてしまったように思う。
海外製の三線が産業廃棄物にケースごと破棄されるのを、私たちは黙って見てはいけない。
材や形や産地で物を区別してはならない。
それを見過ごしてきた結果が、破棄される現実に繋がっている。
どこの誰が作ったかも分からない、古い銘無しの三線でも「三線だから宝」として皆で利用されてきた沖縄の背景には、学ぶべき精神が多く含まれている。
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