琉球の遊郭の沿革については一六七二年に始まるとの説がある。
この地域は元々、沼地であったのを開拓して娼家を建てることを許したのだという。
しかしまた一説があって、それより以前だとの説をなすものもいる。
すなわち慶長十四年に琉球は薩摩に征服されて島津に服従し、以来数名の役人が三年交代で那覇にやってくるのが慣例となっていた。
ところが、彼らの中には横暴なものがいて、娼女の美貌なものを見つけると、直ちに強引に自分の娼にするのがいたらしい。
もし本人やアンマーが承諾しなければ、その家まで言って押しかけて、白刃をかざして談判をして、時によっては拒絶されると本当に殺害するという事件まで起きていた。
また、ひどい悪徳な役人になると、相手が人妻であっても同じように脅迫手段をとることもあったという。
こんな事件に懲りた琉球政庁ではその予防工作として、初めて遊郭を作り娼女をおくことを許したという。
それからというもの鹿児島人は競って娼家に遊楽し、またジュリを娼としてたくわえた。
琉球士族のチミジュリも姿の美しいものも顔の綺麗なものは、鹿児島人に横取りされた。
そのため辻の遊女たちは恐れて日中は外出しない習慣だったという。
あたかも生贄になるのを恐れるようである。そのため明治に入ってからも「ヤマトンチュヌウトゥルサ事よ(大和人の恐ろしい事)」と語っている。
琉球方言で日本というのは薩摩のことをいい、東京そのほかを大日本(うふ大和)という。
明治維新以来、各府県の役人や商人が行き来するものが多くなっている。
鹿児島以外からくる他府県の役人や商人は温順なので、娼婦たちがいうには、「ウフヤマトンチュハ、ドウドヨタサル事ヨ。アンシチュノトヂニナラバ、ウッサ事」(東京人たちはとてもいい人ばかり。あんな人たちのチミジュリだったらいいのに)。
維新後日本政府から派遣された陸軍兵員でも兵器を携えているのを見ると、なお薩摩武士と同一視して、道で出会わすと先を争って逃げ隠れてしまう。
しかし一昨年来、真和志の古波蔵に分遣隊が駐在して朝夕見慣れ、また粗暴の振る舞いがないので、どうやら胸を撫で下ろしているようである。
終わり
※悲しいことにこの記事の書かれた数年後には大戦の暗雲の影響が沖縄にまで強くなるのであるが。
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