沖縄人は自分たちの故郷である日本本土とは、昔からなえず接触を保っていた。
南方や支那と貿易をするにも本土のことを忘れなかった。
おもろそうし には、きや、かまくらというのが随分出ているが、これはいうまでもなく京都鎌倉のことを言っている。
特に華々しい貿易が相互に開かれたのは室町時代とされていて、沖縄の貿易船は南方産の蘇木や香料、孔雀、支那の織物、漢方薬を本土に売り込んだ。
しかし、そういう貿易を大々的ににやるには、薩摩の了解が必要であった。薩摩の大名の交代の時には慶賀使を派遣するのが例となっていた。その船を あやぶね といった。このあやぶねには琉球産の織物や酒などたくさんの新物を積んで、丁重に将軍や大名に敬意を表したようである。
ところが尚寧王の時代になって久米村の謝名親方という人が三司官になって政治の実権を握ると、それまで長く続いた薩摩との慣例を無視し、あやぶねに積む物も、粗末なものをやって薩摩をおろそかにしたらしい。
薩摩は前々から沖縄の対支那貿易を横取りしようと企んでいたこともあって、この謝名の薩摩を軽視する外交にいいがかりをつけて1909年には兵士3000人を沖縄に送り、琉球王をとらえて鹿児島へ連行したという流れがある。
薩摩との一戦に敗れた琉球の人々は、すっかり自信を失って自暴自棄になった。新日派と新支派との間の葛藤。とくに首里那覇のさむらい階級の住む町は、心も荒れてしまったという。喧嘩口論、暴力沙汰が絶えなくなる。この状況を見た薩摩側は掟15条を出し、その中に、喧嘩口論禁止という一項をもうけ、反薩摩側の酒呑たちを取り締まった。しかし、いくらそのようなことを取り締まっても、被征服者になったというコンプレックスと、すべてに望みを失った虚無感はどうしようもなかったという。
人々は働く意欲も失っていた。それは生産力低下となって現れた。この状態が半世紀続いた。
羽地朝秀はこの状況に、「大和の支配になってこの方、4、50年、国中これほどまでに衰えたのは、一体なんとしたことであろう」と言った。
続く
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