私の親戚に平安座島でユタをするおばあがいる。
幼かったころ 平安座の小さな集落内にあるおばあの自宅でお泊まり会があった。家とは別に小さな祈りの建物があり、ここには絶対に入室禁止とされていた。ちょうどお盆の頃で、私は何もすることがなく、近所をふらふら散歩しようとしたら、「海には絶対いくな、足を引っ張られたり突き落とされたりするよ」ときつく叱られた。だから、平安座島は少し奇妙な場所という思い出が残っている。
しかし、嬉しいことがいくつかあった。
それはこのユタおばあは良くハワイに仕事で行っていたので、お土産に持ってくる好物のマカダミアナッツチョコが楽しみだった。ハワイでもおばあは人気者だった。
それから随分経ち、法事のため平安座島を訪ねた。
海中道路は昔よりも明るくなり(昔は街灯もない真っ暗な道だった)、設備も整っている。外部の企業は受け付けないとしていたが、LAWSONもある。住民の皆さんも良く利用している。カフェもある。移住者もいる。昔と比べたら様変わりである。
久しぶりにおばあにあった。足を痛めて今では外出も厳しいという。そのおばあが私に見せたいものがあるといった。古い三線だった。
実はおばあは若い頃、何度もハワイに呼ばれた。当時はまだ沖縄県出身者で島文化を大切にされている方が大勢いて、ユタに判断をお願いする習慣も残っていた。だからわざわざ沖縄に連絡してユタに来てもららう必要があったのだ。
おばあの旦那、大勢の子供、仕事仲間みんなで行くのも旅費は全て依頼人持ちだ。その依頼人とはどんな人か?と聞くと、「ハリーさん。仲宗根ハリー先生だよ」と聞いて私は驚いたものだ。
仲宗根ハリーといえば、ハワイ人には有名な財界人であり、沖縄音楽を広めた一人として、また三線コレクターとしても有名な方だ。沖縄からハワイに渡り成功したハリーさん。昔からの夢だった名器三線収集も行なっていた。そのハリーさんは、平安座島のおばあを信頼し、何度もハワイまで来てもらい、仕事の運気、判断、悩み事の一才を任せていたのだった。そして死期が近いと悟ると、おばあに一丁の三線を形見として渡していた。それがその見せられた三線だった。
一昔前までなら、マニアな三線蒐集家の誰でも、仲宗根ハリーの名を出すだけで驚いたものである。今となっては、三線界や職人の誰も、そんな事知らないという風である。深い三線の世界や話がわかる方がめっきり減って寂しいものだ。
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