ひたすら音づくり 模写 一、幼少年時代 1

ひたすら音づくり 又吉真栄著

一、幼少年時代

私は大正五年十一月九日、中頭郡読谷山字喜名五五四番地で、父真徳、母カマドの長男として生をうけました。私の父は北谷村野国で育ったが、生活に恵まれていなかったようで、野国の家屋敷を売り、読谷山村の牧原の後方で「クボウクラシチ」という所に移り住んだ。家族は老父母と男兄弟三人、それに長男嫁の六名で、炭焼きをして暮らしていたようです。私の父は長男で、この三人が空手を修練していたことは、私自身もよく知っています。この三兄弟に関する武道話も残っており、当時の語り草になっている。
貧しい暮らしの中で妻に先立たれた父は、淋しい毎日を送っていた。そこで昔からの親友である糸数の兄貴を訪ね、苦労話や世話話などをしたようです。糸数の兄貴も、妻を失った男に深く同情を寄せたことでしょう。他方、母も読谷山村字楚辺の大見謝家に嫁いでいたが、長女オミトが生まれた後、主人が他界しました。そこで母娘は母の実家中村柄家にもどり、祖母ゴゼイ、祖父実昌と四人で暮らすようになりました。このように互いに伴侶を失い、不幸にあった男女を添わせたのが、糸数の兄貴であった。ところが事は簡単ではなく、女性としてむつかしい立場にあった母は、つよく反対したそうである。しかし結局は、家庭を持つことになった。新しい世帯は喜名馬場通りの五五四番地の借家におちついた。父は炭火焼きをあきらめて、農業をするようになった。その間に、姉の大見謝オトミは母方の実兄仲村柄実利家に引き取られた。母はこのようにして大正五年、父真徳、母カマドの長男として前記の場所で生をうけたのです。私の誕生から間もないころ、年老いた父方の祖父母は相次いで世をさってしまったそうです。続いて妹が生まれたが、その妹もまもなく死んでしまった。その上わたしもまた病弱で父母には大変苦労させたようです。私が物心ついた頃、母はいつも「比嘉小の小母さんと宮平小のカミー小母さんの恩義を忘れてはいけないよ」といっていました。
比嘉小の小母さんは、後に今川焼きのウンメーといわれた方です。このお二人は、私が病弱なのでら芋を食べさせてはいけないといって、絶えずごはんを差し入れてくれたとの事です。とにかく、世帯をもって息つく間もなく、相次いで起こった不幸や病弱者の私のために、父母の心労は絶え間なく、暮らしは文字通り四苦八苦だったようです。

続く

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