連載 続古三線に魅せられて〜故津波清吉氏の思い出

製作を始めた時にぶつかったのがどうやって三線の型を準備したら良いかということであった。
洋裁でも和裁でも、プロレスのマスクであっても、ある程度パターンを用いるように、三線にもパターンが必要だと教えていただいたり、棹の作り方を手ほどきしていただいたおじい。

大正生まれで読谷村出身の職人、故津波清吉氏から型のいくつかを見せてもらい、アルミ盤に複製してそれを元に作り始めた。清吉氏から三線製作の作り方を教えてもらいながら、昔話をよくしてくれたものである。また口調は、沖縄方言と関西弁を使い分けながら話す方だった。

清吉さんは戦前大阪に渡っていた。普久原朝喜ら大御所たちとの交流も多く、そこで琉琴も習得した。終戦後に大阪から知名定繁家族、幼い知名定男と船に乗って沖縄に帰った。隠れて入港しなければならなかった。大阪から引き揚げて沖縄に帰ると、大和人 と言われて嫌われたり差別されるためであり、大きな声では言ってはいけなかった。
最初は石川で三線屋を開いたという。昔は三線屋は繁盛しており、客をそばで待たせながら棹を作り、完成させてその場で引き渡したほどであったという。昔は酒が好きだったので、飲みながら棹を作ったのだと、笑いながら語っていた。
とても懐かしい風景としては、耳も遠く音程も取れなくなっていたが、大阪から持ち帰った手作りの琉琴(普通の生田琴を半分から切って、短くし、鉄線を張ってできたもの)を調子外れで歌う背中であった。それがなんともかっこよく見えた。手作りの琉琴も、チンダミも狂った音色も、その方の歩まれた歴史が深く、18のわたしにも涙するものがあった。

清吉氏が過去に作ったとされる三線のいくつかを見たが、歪みもあったり、バランスとしては良くなかった。しかし、その手作り感はどんなに綺麗な現代三線とは比べることができない、人間味が溢れていた。昭和の三線、戦前生まれの方から生まれる楽器の音というものを学ばせていただいたように思える。

それから何年も後に、清吉氏が亡くなったと聞いて仏壇に手を合わせに行った。懐かしいあの琴はもうどこにあるのかは分からないが、わたしの脳裏にはあの雰囲気と鉄の音色が深く焼き付いて、今でも忘れることはない。

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