泡盛と歴史④献上品としての泡盛

500年前の那覇港は支那の酒や南方諸島から運ばれた南蛮酒が集まり支配階級の人々は、この舶来の酒に当然として平和を好んだようだが、この舶来酒に劣らぬ上物ができるようになったそうだ。
そして室町幕府、薩摩公へ、それを献上してご機嫌を伺いつつ、本土へ手広く輸出するようになった。
内地に使者を送る時には唐衣装をつけ、支那式の路地楽をし、花火を鳴らして乗り込んだ。
そしてシャムのラオロンや泡盛をまず献上し、三線(当時の日記には しゃひせん とある)も弾いて琉球芸能も披露した。
この頃までの沖縄からの使者たちは、支那式の服装をつけての会見に誇りを感じていた。
決してコンプレックスなど感じていなかったようである。実際に琉球人ブームもあったのだから。
支那式服装、支那式音楽、南方伝来の高級酒、それらを生活化していることに、沖縄文化が進んでいることを見せたかったのだろう。
しかし、それが薩摩に武力で征服されてからの江戸上りや鹿児島上りからは、被征服者というコンプレックス意識があったようで、誇りが一気に恥唇に変わったという。(それから沖縄人というコンプレックス意識が何世紀と続いていくことになったような気がしてならない)
しかし、自国産の高級泡盛には相変わらず自信と誇りを持っていたという。

続く

胴巻屋

選りすぐりのヴィンテージ〜名作三線と、手作りの胴巻を扱っています。著書「古三線に魅せられて」

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