宇宙の音色 太陽の音 職人又吉康美

昭和二七年生まれ
三線屋は父親が読谷村時代から続いており、当時親父さんは三線職人を雇って経営されていた。
当時の職人の報酬は給料ではなく、ご飯であった。
つまり、仕事と引き換えにご飯と寝所が与えられればそれで十分という、当時の沖縄の環境や暮らしを感じられるエピソードである。
普天間中学を卒業後は専門学校に通うが、職が見つからなかった。
その後、三線屋を宜野湾市伊佐で開いたが思うようにいかなかったため、暫くして店を畳んでしまった。
精神世界と三線とを結びつけたその独特の思想は、三線作りにも表現されている。
しかし、やり出した当時は生活も厳しい状況だった。そのため、お客さんの注文や好みの名工作や昔三線の復元でみるみる力をつけていった。
お客さんをあっと言わせる美しい作品を作らなければ。その想いはやがて形となり完成されていく。
康美さんはUFOにも関心が高く、私も仲間から誘われて一緒にヤンバルまで同行したことがあった。私はてっきり本当に見せてもらえると期待していたのだが、残念ながら見ることはできず拗ねた思い出が残る。随分昔の話であるが。
しかし、若き頃の作品は素晴らしくいきいきとしていた。当時塗り屋をしていた玉城氏や湖城氏(故人)もその腕を高く評価していた。
民謡歌手の田場盛信さんも昔は康美作を弾いていたのが懐かしい。
あの頃の作品は高額でも買い占めたいものである。
脂の乗っている時期 という期間限定は、職人やスポーツマンその他誰にでもあるものだ。
随分と有名になった後の作ももちろん素晴らしいが、当時を知るものにとって、無名時代ほど魂の入った作品はない。
残された作品の数々は今後、国宝級となるに違いない。
古堅



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