お疲れ様でございます。
今は亡き桃原チーガさんとの会話で印象に残っているエピソードを思い出したのでここに記します。
その当時(終戦後)は三線屋は棹、皮張、チーガ、カラクイ、糸掛、ティーガー、塗の一才をその店舗で仕上げるのが一般的であった。
若き頃の桃原さんは工作が好きであったので、近所の三線屋を訪ねて、作りを見たりして見学していた。
ある時、三線屋の主人が「君はチーガを作ってみては?」と提案があった。そこでチーガを作ってみようと思ったが、もちろん作り方を見せてくれるわけでもなく、教えてくれることもなかった。そもそも、作り方を尋ねるのも失礼と思い気が引けていたからだ。
仕事中や暇がある時に、桃原さんはずっと「チーガはどうやって作るのだろう」と頭で思案していた。
チーガを譲ってくださいと言いたくても、単品で売ってくれるような時代ではなかった。そもそも、それを買うほどのお金もなかった。
だから桃原さんは頭で考え続けるしかなかったのだった。
そんな日が続いたある日のこと。
桃原さんはその日もチーガの制作方法のことで考えながら散歩していた。外の天候はどしゃぶりの豪雨だった。
近所の坂道を登っていると、たまった雨が側溝に激しくながれていた。その時、奇跡が起きた。
なんと、雨の流れに乗って、一個の古いチーガが流れてきたのだった。
どんぶらこ どんぶらこ
桃原さんは目を疑った。まさか。
すかさず手に取ると、やはり、三線のチーガであった。
桃原さんはこれを拾って持ち帰ると、その古いチーガの作りを見習って、自身のチーガを作ることになったのであった。
その後、三線チーガ職人として活躍するのであった。
これはおとぎ話でもなく、冗談でもなく、実際に桃原さんから聞かせていただいたエピソードである。
−求めよ さらば与えられる−
のであった。
三線製作や経営を始めたが、なかなかうまく行かないというお声をいくつかお聞きします。
しかし、自分なりの道が必ずあると思います。
もしも貴方様が楽典に詳しいのであれば、四弦を開発して、そして演奏して広められてはいかがですか。(実は琉球時代に四線もあったのですから)
沖縄県出身者 内地出身者 外国人の方は問わないと思います。豊見城の吉川さんたちも頑張られているではありませんか。
オリジナルで進んでいく道もあると思いますし、伝統を重視して、そこから発展することもできると思います。
求めましょう。そして楽しみましょう。
桃原さんのように諦めず、もとに進もうではありませんか。
私は私なりの求める美があります。
納得いくものをご紹介して楽しんでいただけることが、楽しくて仕方がありません。
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