明治生まれ 大正期没
三線工サンラーの言い伝えである
サンラーは三線工の父の長男であった
廃藩置県後
父は身分を失ったため酷く貧乏であった
その時期に生まれたのがサンラーだった
幼い頃から父の手伝いをしていたが
それで飯は食えなかった
青年時に大工奉公で親元を離れる
寝床と宿を与えられたがすぐに辞め
一人八重山に渡った
八重山から那覇に戻ったと思うと
また姿を見なくなった
不思議に思って人々は「三線サンラー」と呼ぶようになった
サンラーは三線を作るようになっていた
作る時は決まって満月の夜で
海辺に座り 焚き火して 誰にも見えないように
ゆっくり手がけるのだった
そんな風にゆっくり進めるのだから
一年で二本完成すれば良いほどだった
三線にして仕上げるまで約三年を要した
生きている間に作った三線は
数えるほどしかなかった
しかし彼は平気だった
外見はほぼ放浪者の身なりであった
貧困には慣れていた 時々食べて
夜は砂浜を枕にした
作り上げた三線は金銭に変えることもあったが
彼にとっては意味がなかったので
時には気に入った人に差し上げた
何も欲しず 何も要求しなかった
ただただ 時の流れの中で
作品が出来上がっていくのを待つのみであった
最後に彼を見たのは糸満だったと言われている
その後彼がどうなったか知らない
そんな彼が手掛けたという三線を
見に行ったことがあった
糸満市の元海人のおじいの家にそれはあった
一度内地に売られたが
また戻ってきたのを買い戻していた
その優しい作りは現代では絶対見られない
昔三線特有の曲線である 音色である
そう 彼はその生涯を幸せに生きたのだ
何も欲せず 何も要求しない
争うことも 欲しがることもなく
幸福のうちに 旅立ったのだ
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