八重山黒木を本島に持ち込んだエーマン人たち


私の親戚は八重山人が多い。母方が八重山と深く関係しているからだ。その中には沖縄本島に移住してきた三線好きがいて、名を亀谷といった。その亀谷のおじさんは、泡瀬に住んでおり、三線屋から「エーマクルチはあるかね?」と依頼があると「ウー(はい)」と言って八重山いきの船に乗った。一昔前までは、山に生えていた八重山黒木を切り取って持って運んでいても、誰も注意するものはいなかった平和(?)な時代があったのだ。そしていくつかの八重山黒木を製材後に、また本島に運ぶ。想像するだけでも重労働だったであろう。時には、同じ八重山人の無職の知人らを雇い、本当まで運ぶのを手伝わさせることもあった。こうして本島に運び出すと、それを自分の泡瀬の自宅一階部分に並べて長いこと乾燥させる。すぐに三線屋に運び出しても「木が甘い」と言って、切ったばかりだと悟られてしまうから、乾燥させて持っていかなくてはならないのだ。亀谷はその辺の事情をよく知っていた。乾燥して重量も軽くなったところを見計らって、ママチャリの荷台に括り付けて三線屋を巡り商売した。一昔前(と言っても40年以上)から三線屋を営む人ならもしかすると亀谷を覚えているかもしれない。三線屋を扉をノックして、「にーさん、エーマクルチ買わないね?」と言って歩いた。そうやって中部地方を売って歩いた。そうやって家の者や子供たちを食わせてきたのだった。また亀谷は三線の棹も作った。相当な三線好きである。私も親に連れられて泡瀬の自宅に行ったことがあった。天井には何十と棹がかけられていて、真っ黒のその棒のような楽器を不思議に眺めた記憶がある。その亀谷が作った棹を、随分大人になって手にする機会があった。とてもではないが不恰好だった。異様にふとくてバランスが悪い。でも、エーマクルチ。昭和の時代には三線工の天才が何名といた。その作品と比べてしまうととてもではないが、同じ楽器とは思えないほどの出来栄えであった。亀谷のような人が他にも何名もいた。彼らはお互いで協力しあいながら生計を立てていた。そして、あの真夏の蒸し暑い自宅工房の、並べられた黒木原木と棹の匂いを、私は忘れることはなかった。


胴巻屋

選りすぐりのヴィンテージ〜名作三線と、手作りの胴巻を扱っています。著書「古三線に魅せられて」

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