嘉手納の山内おじいの思い出


旧嘉手納ロータリーには昔は山内昌永さんという民謡歌手の先生が三線屋を営んでいたのが懐かしい。昌永さんの店から少し離れた場所にもうひと方、同じ嘉手納で三線屋をしていた山内さんというおじいがいた。この山内おじいは元々三線弾きの名人で、昔は歌手として活躍していた。
三線好きが高じて自分で作るようになったのは戦後のこと。昔は全部一人の職人が棹、カラクイ、糸掛、ティーガー、チーガ、皮張りの一切を作っていた。そこで山内さんは、「部品を作って売り歩いてはどうか」と考えた。そこでカラクイから制作することを思いついた。これはすぐに当たり繁盛した。棹だけでも大変な三線屋からすると、造られたカラクイを買った方がうんと時間も節約できて助かるからだ。山内さんはまず都会の那覇まで行き、当時の名人たちの店を歩き回った。まとめて買ってくれる店も多かった。そんなこんなで何年か過ごしていたが、当時から名人と評判の高かった玉城盛善さんがカラクイ製造の機械化を実現して状況が変わった。
山内さんは一本一本手作業なのに対し、機械の製造には流石に敵わない。やがてカラクイもあまり売れなくなってしまった。カラクイだけでなく棹も手がけていた山内さんだが、夜通し働き詰めになって棹の出来も悪くなってしまったので、ペースを落として細く長く店をやっていくのが良いと思った。「あの頃作った棹を全部集めて薪にして燃やしてしまいたいさ」と当時を振り返りながら苦笑していた。「1日に急いで2本ペースで作っていたりしたから、良いものができるわけがない。いま思い出してもあの頃作ったものは恥ずかしくて見れないさあ」。苦笑いしながら穏やかに落ち着いた山内さんだった。するといつも決まって「あんたの古典節を聞かせてくれ」とせがまれたものだった。そのお返しにと、今度は山内さんが三線を取って、ゆっくり調弦して、それから「山内小のハンタ原」を弾き出す。早弾きの曲だがとてもゆっくりと、語るように歌い出す。それがもう絶妙だった!!ああ、やはりそれぞれその歌う人に合わせて形を変えてしまう沖縄の昔歌はなんて素晴らしいんだろう と何度と思ったものだった。今ではあのハンタ原を録音して記録に残しておけばよかったと後悔している。ご家族の方にもCDにしてお渡ししておきたかったと。思い立ったことは実行して形にしておかなければ、古き良き物語は、それを知っている人々の思い出の中に残って、やがて消えてしまう。それもまた美しいが、欲張ってでも形に残すことこそ、どれほど美しい結果を残すのかということを考えなければならない。あの山内小のハンタ原、ぜひ皆さんにも聞いていただきたかったと。

0コメント

  • 1000 / 1000