名器「守林」芯の段差の謎とその背景


年月の経過とは早いもので、名器三線を探訪した自称「三線まーい」(三線巡り)も懐かしい思い出になっている。
不思議で面白いのは、心の中で密かに「あの名器三線を実際に見てみたいものだ」と睡眠中の間さえ思い考えながら日常を過ごしていると、遅かれ早かれその実物を実際に拝むことになるという、ご縁をいただくことが何度もあった。
その中で、久葉春殿型の中でも最も細身で美カーギと言われた守林なる名器を拝めたことは、いつまでも心に残る思い出になった。そして著書にも探訪時の写真とエピソードを掲載し紹介させていただいた。
守林は池宮城喜輝先生の「琉球三味線宝鑑」の中でも紹介されており(なぜか写真は無い)、池宮城先生は「一見南風原型と見えるが久場春殿型である。芯に守林の記入があり、根元一寸三分段差があったが削り取られ、其下に△形の穴がある。音面見事な名器である」と称えてられている。
ここでは 段差は削り取られている とあるが、実際に見ると段差は あった のだ。私は不思議と思い、池宮城先生も記載を間違えることはあったのだろうか などと思ったものだった。実物であるのに、段差はある。これはどういうことであろうか。
私は改めて自分の持っている資料を調べ、写真を吟味してその謎に迫った。すると一つのことが判明した。
まず、削り取られた段差は、三味線宝鑑掲載の後、どこかのタイミングで修復されたものであると断言するに至った。
それは私が撮影した時の芯の写真をよくよく見ると、段差に薄く補修して付け加えられた跡が薄く残っているのがわかる。
これは現物を見た当時には全く気が付かなかった。なぜなら肉眼では修復の跡も見えなかったし、元々のオリジナルなのだと思った。
しかし写真をよくよく見ると光がよく芯に当たって、稍芯全体が光沢しているように見えるが、薄い接着の跡が白く見えている。
そして、私が見た時には段差に「守林」の彫りがあったが、池宮先生は「守林の記入」があったとしている。ということは、当時は 彫り ではなく、筆墨であったことが分かる。ですから、三線宝鑑時にあった守林の記入がどこかのタイミングで 消え 、また削り取られた段差も修復することになったのだろう。其際に守林の彫りを入れてもらうよう取り計らったと思われる。
そこで突っ込んで探究したい方なら誰もが思うであろう疑問が残る。そうだ。ではなぜ段差は削り取らてしまったのか?ということだ。一緒に考えていただきたい。
私が推測するにですが、高い確率で言えるのは、「段差を削り取ったのは、三線屋の職人であろう」ということだ。
まさか とお思いになる方も多いかもしれないが、これは例外なく事実多かったのだ。
私の予想はこうである。時代は終戦後のことであろう。其当時守林を所有していた者が修理のため三線屋を訪ねた。おそらく張り替えのためだったであろう。主人に「名器三線ヤイビークトゥ、上等皮でお願いします」と依頼した。三線屋は任せておけという感じで快く引き受けた。何日か経過して仕上がったので、心待ちにしていた持ち主は足を早めて取りに行った。見る限り上等皮である。音色も満足だ。三線屋の主人に礼をいうと、こんな返事が返ってきた。「段差グァーがあったから、分当てに邪魔になったから削り取っておいたよ」。? 持ち主は耳を疑った。名器でしかも戦前の宝というのに、勝手に段差を削り取っただと?一体どういうことだ。口論になり、結局決着もつかず泣く泣く後悔して三線屋を後にした。後年、池宮先生が名器三線を取材するため鑑定会があると聞いてこの三線を持参し、事の流れの説明を申した。池宮先生は「其ような事があったのか。これは間違いなく名器だから、それなら段差があったことはちゃんと書いておかねば」として、上記のように説明文を掲載された。
おそらく其ような流れだと思う。もう半世紀以上も時は経つので真意はわからないが、ざっとこのような展開があったと思われる。
それでも、「いやいやそれは言い過ぎでしょう。そんなバカな話があるわけないじゃないか」という声が聞こえてきそうなので、追加説明します。
この三線屋の主人は、決して悪意を持って削り取ったわけではない。逆に、親切心でそうしたのだ。「段差があるとチーガの穴も大きくしなければならんし、こんなに大きくしたら壊れちまいじゃねーか」と言った感じだったでしょう。今のようにチーガが量産されていた時代でもない。チーガ一個でも注文を受けたら一から作らなければ準備できないような時代だ。其ため現代のように「元々ついていたチーガとは別で新しいチーガを使って久場春殿用のチーガとして調整して準備しておきましたからね」などと言えるような状況ではなかった。また、職人の中には古い三線に対して軽視する方も実際にいらっしゃることを付け加えておく。自信たっぷりで素晴らしいことであるが、他の職人の作ったものを認めない方も現代においてもいますが、古いものとなると、作りが悪いとして否定的な職人さんも、実際いる。其点から見ても、段差を削り取った主人は、配慮が足りなかった点は認めざるを得ないだろう。
そしてもう一点大事なもの。それは終戦後に三線に対する高い思想が変わってしまったということもここで記載しておきたい。
琉球時代〜廃藩置県〜蘇轍地獄〜激戦〜アメリカ世と大和世の波が押し寄せたという流れを想像しただけでも、どれだけ私たち先輩である沖縄人のみなさんが困惑し迷いながらも時代を生き抜こうとされていたのか。その時代背景を踏まえて考えると、この「段差削り取り事件」の背景も一歩譲って(いや三歩)理解しなければならない気がする。お金よりも食べ物と住む場所と着物一枚あれば有り難い、として生きていた時代から、生き抜くためなら盗んででも食べなきゃならない激しい時代の次に、数々の琉球時代の遺産を現代化推奨運動の中で数々の建物や建造物が壊され便利化が進む。お金がどっと流通する。近代化がどんどん進む。これまでの生き方では食べていけず、あれだけ大和化やアメリカ化反対の若者たちも一人また一人と運動から離れ、群衆の中で安泰を求めて消えていった。親、親戚、兄弟、友達、住み慣れた地域を失い、古き良き青写真さえ残ることも許されなかった孤独な経験を、誰もがしていた。
そんな目に見えない大きな近代化の力が、琉球人としてのスピリットを誇り高く持つものと、それを捨てて時代と共に生きることを選択するものと、時は無情にも二つに分かれることを迫った。後者を選んだ三線屋の職人であれば「たとえ古いものであってもそれは昔のこと。久場春殿型だから段差はあるが、それが邪魔になるなら削り取って便利な方が良い」と考えたであろう。
久しぶりに守林の写真を見ると、たとえ段差一つとて非常に感慨深い者がある。やはり、どのような経緯でも、それを頭ごなしに否定することはできないものだと。



胴巻屋

選りすぐりのヴィンテージ〜名作三線と、手作りの胴巻を扱っています。著書「古三線に魅せられて」

0コメント

  • 1000 / 1000