問い※開鐘は本当に真壁型だけなのか?


だいぶ前のことになりますが、珍しいタマイ與那城(天の曲がりが強い與那城)が委託されたので、あるホームページで掲載したことがあった。
それを閲覧したとある方から「タマイ與那城?そんなものあるわけないじゃないか。あなたは何を言っているのか?流通している三線一覧表にもそんな型は載っていませんよ。」との指摘をいただいたことがあった。しかし、現在の三線型一覧表は「戦後になってから」のものであることを、今一度よく考えていただきたいなと思った。それでも残念でならないなのは、先ほどの寄せられた意見が上がるその発端には、世の中自体が(三線研究全体が)、そこまでの探究心や取り組みの情熱を完全に失っていることに何ら疑問を持っていないことである。これはもはや致命的だ。少しは知っている人も「それはもう終わった。昔のことだ」という先輩もいる。そうなのか?いや、違う。私は明晰な見解を持っているのですが、なぜ多数の人が信じる意見に無意識に同意してしまうのでしょうか?例えば「タマイ與那城」は実際に過去の記録でも確認できますし、戦前作の実物も何度も見たことがあり(それらの多くは沖縄県や日本にはなく南米、ハワイ、ペルーなどに渡っている)ますが、それを見ていない人はまさかと疑ってしまう。また、現代職人さんの中で、タマイ與那城型と言って昔三線のような強烈な曲がりを実現して、それを発表される機会などほとんどない。作ったとて「そんなものは売れない」と囁かれたりする。ユーザーは見る機会も知る機会もない。それが昔三線の復刻でなくオリジナルであっても、他と外れる事を避ける傾向というのが、明らかに現代職人や業界では確実にあり、これが三線の世界観にみる独創性の衰退の原因の一つにもなっている。こんな例は他にもたくさんあります。「タマイ南風原」「タマイ平仲」「タマイ久場春殿」「タマイ江戸與那城」etc...。それらは実際に戦前作の三線に存在していたのだが、そんな例はあげたらキリがないほどだ。
前置きのような話は、「開鐘」に選ばれた三線の話題にも共通する。開鐘は天才真壁作の真壁型だけだ、という見解もあるし、真壁型のみだ、という意見もある。とにかく「真壁型」が開鐘として認められたということになっているが、深く資料を見ていくと、真壁型以外にも開鐘は存在したことがはっきりとしている。随分と前に、私どもが所有した「與那開鐘」という琉球王朝期作の名器があった。そして行方不明の「糸蔵長開鐘」もあるし、「百目開鐘」も南風原型である。また、久葉春殿型の開鐘というのも、今もハワイにあってひっそりと保管されている。すると歴史として伝わってきた逸話がひっくり返ってしまう。これまでの論文も全て書き換えなくてはならなくなってしまう。しかし、この小さなブログでこつこつと諦めず訂正していこうと思う。知っていただきたい。名器開鐘は「真壁型」に限定していなかった。現存する記録や歴史的作品が過去に証明している。もっと視界を広げていくべきだと思う。自由な発想、思想、展開があっても良いではありませんか。いつまでも固定観念を持つことで、限界を設けて、どうして三線の発展があるのでしょうか。
何年か前。ある学芸研究家様と対談する機会があった。その際「なぜ海外にまで目を向けて古い三線に興味を持つのですか。なぜお金を払ってまでそれらの三線を手に取るのですか。私にはちっともわからないな。私は仕事として渡航費も出るから、遠くまで出向いて、それらの作品を調べて記録するということができるのですが」と不思議がって尋ねられたことがあった。その質問の中に「限界」を感じてしまい、悲しくなったのだが。。

胴巻屋

選りすぐりのヴィンテージ〜名作三線と、手作りの胴巻を扱っています。著書「古三線に魅せられて」

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