戦前から開鐘として名高いアマダンヂャ開鐘は、戦時に持主が三線と一緒に南部の戦火を逃げ回っていたが、爆撃を受けてしまい、持ち主も三線も失ってしまったという悲劇のエピソードが語り継がれている。そのため、私たちはアマダンヂャを見る機会もないのですが、今から二十年ほど前のことになるが、旧具志川市平良川で板金屋を経営していた主が、「実はカンカンカクカクの流れがありアマダンヂャを隠し持っている」と胸の内をこぼしたことがあった。一体どういうことかと尋ねたら、「アマダンヂャは戦火の犠牲になっていると言われているが、実は三線は傷を負ったものの無事であった。それを名器と知る人物が、持ち主が亡くなってしまったので、悲しくて悔しくなり、彼の遺品としてこの三線を持って、私が亡くなるまで肌身離さず持って供養しようと心に誓い、それを拾い上げて戦を逃げ戦後を迎えるに至った。それから数年か後に、三線鑑定会が行われ、琉球の宝がどれだけ残っているかと調査していると聞いて知ってはいたが、彼は、これを没収されるのではないかと考えた。それに、あの戦を共にして逃れたのだから、簡単には人に見せるものかと意地になって、よしこれはもう誰にも見せないで自分だけの胸の内にしまおうと決めたのだった。それから何十年も経ち、とうとうその方も病に倒れたのです。その時に彼の知人だった私は、実は三線の名器を持っていて、誰にも言ったことがない。もし貴方が興味があれば、これを引き継いでくれないか?と差し出されたのがアマダンヂャでした。私はあまり三線のことに詳しくなかったのですが所有することにした。あれからもう二十五年ほど経つ。興味があれば見に来なさい。」と話してくれた。私は半信半疑で自宅に伺うと、塗りも剥げ落ちた小さな三線が箪笥から取り出され、それを拝む事ができた。相当に古いもので、昔はさぞ大事にされたのだろうと思う三線だった。棹は弦の力で逆反りしていて、芯も糸蔵に引っ張られて芯上がりしていた。演奏は不可能だ。銘はあったと思われるがそれも朱漆は剥がれており、何か筆書があったのだろうというものだった。これが本物かどうかなど誰にも分かるものではないのだが、何か凄まじいパワーを感じるものであった。相談なのですが、と主は続けた。「この三線のレプリカを使って見本に置いておきたいと思うのだが、誰か良い職人はいませんか?」と言われたので、私は丁重に「それはやめておいた方が良いです」とお断りしておいた。なぜならそれをアマダンヂャ開鐘の写しといって、アマダンヂャ開鐘型などと命名して世に広まるのが落である。「アマダンヂャは戦火で失ったとされており、それは愛弦家の胸の中で幻の名器として語り継がれています。ですから、これがほんものかどうかわかりませんが、世間で伝わるエピソードのそのままで触れないでおいて、これはこれでずっと大事に持っておく方が元の持主さんとしても嬉しいはずです」と答えてみるとさぞ喜ばれた。「実は噂を聞いて◯◯三線店という方が、ぜひとも写しを作らせて欲しいと尋ねてきた事があったが、良く分からず断った。随分迷ったけど、やはりこれはそのままにしておいたほうが良かった」と呟いた。今もあの三線が懐かしいなと思い、先日尋ねてみたのだが、そこはもう別の建物になっており、家のものに事情を話して転居先を聞いてみようとしたが、不動産を経由してここに来たので面識もないし分からないとのことだった。あの板金屋の主とアマダンヂャなる三線はどこでどうしているのか。私も胸の中で想うだけにしようと決めた。
アマダンヂャ開鐘と言伝えの三線
胴巻屋
選りすぐりのヴィンテージ〜名作三線と、手作りの胴巻を扱っています。著書「古三線に魅せられて」
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