新崎の久葉春殿と健八先生の久葉ぬ骨型思い出


幼年時の話になりますが、エイサーで有名な園田という地域は今も道が狭く、軽自動車が通るのにやっとというような細道が続きます。
ですから、ちょっとでもスペースがあると(と言っても8坪ほど)その場で少年たちが集まって野球をやったものです。
ホームランを打てば隣接の屋敷に入ってき、ファールを打ってもどこかの屋敷に入って行きます。
ボールを取りにいくのも敷地に勝手に入っていくのですが、今考えると平和な時代でした。
入る時は一言大きなことですいまーんと声かけて、出なければボールが落ちたであろう場所に入っていくわけです。
野球をやる広場のすぐ隣は、三線の音がテンテンと鳴る家で、そこにおじいとおばあが住んでいました。名前は新崎さんという家。
ボールを見つけられずウロウロしていると怖そうなおじいが出てきて、「見つかったね?」と言ってくれるオジイでした。
日曜になると三線の音が聞こえてくるその屋敷でしたが、ずいぶんと後になって三線を勉強し、歴史三線に興味が出た私でしたが、
沖縄市園田に県指定の久葉春殿があると記載されており、よく調べると近所の新崎さんの三線だった。
今はあの屋敷はありませんが、日曜に聞こえてくるあの三線の音は名器の響きだったのだと、思い出を振り返りながら嬉しい気持ちになった。
そういった思い出もあって、久葉型好きになった。
久葉型といえば久葉ぬ骨型の思い出もある。沖縄市のパークアベニューの松田健八師範が健在の頃。週に2回の稽古に通っていた。
先生は久葉ぬ骨型を愛用していて、私にはなんとも不思議な型に見えた。それはどういった三線なんですか?と聞くと丁寧に教えてくれた。
先生が若い頃にホテル送迎の運転手をしている頃に月の給料の10回分もする三線を買った。照屋林助氏の父林山先生から購入したと話していた。
そしてこれを買うからには絶対に沖縄で有名な歌者になると心に決めて鍛錬したと話していた。
林山先生の作ではなく古い名器だよと言っていたのですが、あの形やセンスの良い型はあれ以来出会ったことがない。

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