「三線」と聞くと何を想像するだろうか?
楽しい・沖縄・南国・島唄・民謡・古典と言った印象
また、綺麗・かっこいい・渋い・音が良い、と言った印象
そして楽器としては、塗りの好み・本皮張りはどんなものがいい・何型が好き・黒木がいい・・・・
上に書いたように、一般的にはこのような印象が多いかと思われます。
一区切りしまして、
ここで改めてお伝えしますが、私どもの伝えたい「何か」。
それはおそらく、従来の三線としての考えでは予想もつかぬ世界だと思います。
これから伝え続ける、私のつたないコラムですが、どうか「三線の不思議な魅力と謎の世界」を知り、楽しんでいただければ幸いです。
そして、三線の魅力や深い三線の世界がより多くの愛好家さまのお役に立てることを願って。
【職人又吉康美を想ふ】
宜野湾市新城の民家に、その三線屋はひっそりと経営している。
「職人 又吉康美」沖縄三線界の巨匠と称えられた人物。
又吉氏の「三線美学」が与えた多大な影響は、一言二言では言い表せない。
一般に師の作品は「開鐘型の復刻」「とにかく綺麗だ」「高級品」「製作に1~2年かかる」等の評判が残る。
反対に、「精神世界や宗教じみている」「変わり者」「製作する前に仏壇に手を合わるらしい」等の噂も聞こえてくる。
しかし私個人の意見ですが、そんな評判や噂以上に、もっと高く作品の技術や功績を評価するべきだと思う。
師が伝えたい三線思想、作品の見せ所、細部の拘り、愛情、曲線やミリ単位の角度の見せ方・・・
私たち三線愛好家は、職人さん達が訴えたい「何か」を、見て触れて判断し、感じて評価する目を養わなければならない。
それこそが今後の沖縄三線の発展にとって、一番重要な部分だと捉えています。
私が又吉氏の作品に出会ったのは、お客さんが持ってきた三線の修理がきっかけでした。
翁長開鐘と彫りがなされたその棹に、私は「すごく綺麗な三線ですね」と呟いた。
そのお客さんが「少々変わり者だが一度、店を訪れたらどうか?」と言われ、半分好奇心で三線職人・又吉康美の店を訪ねました。
又吉さんは気さくに自身作の棹や作品を持ち出し見せてくれた。
その時の衝撃は今も忘れることは出来ない。
一般的に「塗り有り」と「塗り無し」では見た目が変わってくる。
誤解の無いようはっきりと言っておきますが、棹は「塗の有り・無し」でだいぶ印象が変わってきます。
「塗り無し」の状態ではあまり良くない三線でも、「塗り」を行うと一級品と見紛うほど綺麗に見える錯覚を起すことがある。
三線製作として「塗り」の技術が「三線の良し悪し」を明暗にすると。
当時、三線製作の勉強中だった私はそのことを心得ていたためもあって
又吉さんが取り出した「塗り無し」の棹、それがどれほど作り込まれた物なのかが一目で分かった。
「塗り」を行っていない棹、本来であれば「未完成」と言っても良いはず。
そこで見たものは、技術と研鑽、思考と練磨から生み出された、「塗り無しの一級品」が目の前に、確かに存在していたのです。
その血のにじむような努力の結晶に、私は言葉が出なかった。
そして、三線職人としての自分自身がすごく恥ずかしくなり、その場から逃げ出したくなるのを抑えるのに必死だった。
これほどまでに作品に打ち込んできた職人さんがいると知り、自身の未熟さと見解の浅さに向き合い改めて勉強することを決意したのです。
━━【職人又吉康美を想ふ】了
ここでもう一つ「職人又吉康美」のお話をさせて頂きます。
「職人又吉康美」沖縄三線界の巨匠、又吉さん作品に関する三線鑑賞の一つをご紹介します
絶妙な「直線」「曲線」「角度」の美しさはもちろんのことですが、
又吉さんはいくつもの「歪んだ三線」を残していることをご存知だろうか?
「左右ずれた作り」、「センター線から外れた作り」をあえて残しているのです。
あなたは信じられますか?
ご承知の通り、三線職人として又は木工職人として、「ずれのある、歪みのある作品を作る」というのは絶対的タブーなのだ。
それは三線の音に致命的な欠陥を生み出す、三線そのものをダメにしてしまう、と言う行為と言っても過言ではありません。
しかし、又吉さんは堂々と「歪んだ」作品を残しているのです。
「洗練された作品」に抗った「歪みのある作品」を残すという「信念」がある。
そこに、もはや職人を越えたアートの世界、芸術の世界、古三線から得た美学を魅せつけているのです。
「銘」を持たなかった若き又吉康美の、情熱に駆り立てられた素晴らしい世界があったのです。
三線職人「又吉康美」は、芸術家「又吉康美」でもある。
その考えで「又吉康美」作の三線を見ると、三線の違う世界が見えてくると思います。
ぜひ、お試しください。
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