連載 続古三線に魅せられて〜センター通りの国吉の真壁

元の持主様が他界されたために、その価値が十分に伝わらず、一人残された三線というものに沢山出会ってきたものでございます。

ある人はそれを 仕方のないこと として、古い三線だからと片づけてしまう方もいらっしゃる。
しかし、消えるものでも無くなるものでもない。いや、消えてしまうことなど、不可能ないのである。それは、私たちと同じ命の存在と変わらないものだからです。

沖縄市の旧センター通りの裏手に、宮古から本島に渡った三線弾きの国吉という方がいた。大正生まれでしたが、亡くなられてもう随分経つものです。
彼が大事にされていた真壁三線があった。一見するとなんら変わりのない三線に見えてしまうのだが、その三線は国吉が八重山で譲り受けたもので、家一軒分の値段はした。国吉はそれを肌身離さず重宝し、三線片手に新地沖縄本島に渡ったのだった。
その三線は作り手を 久場 と名乗るものが製作したという意外は、父亡き後譲り受けた娘さんも詳細はわからないという。
その久場という者が作ったというのは、国吉が他界してから知ったのだという。
葬儀の知らせが沖縄タイムスに掲載された後、一本の国際電話がなった。ハワイからであった。
「実は私たちが沖縄を離れてハワイに渡る前に、国吉さんの名器三線を弾いたことがあった。それは王朝時代から続く三線工の子孫の 久場 という人が作ったものとして、三線弾きの間では良く知られていました。もし宜しければその三線を100万円で御譲りいただくことはできませんか。許されるのなら沖縄まで伺います」
娘さんはその電話からお話を伺えたことで、父の遺した三線の貴重さを知ることができたという。
その三線を見せていただいたことがある。見た目は現在でいうところだと、やや大雑把と捉えられる面もあるが、太くしっかりとした真壁三線である。
三線が歩んだ道のりの多くを知る人はもう居ないが、娘さん宅の床間で静かに息をしているのだ。

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