平良昌則(故人) 昭和六年生 那覇市小禄七五八
大工の家系であった平良昌則さんは芭蕉の里、大宜見村喜如嘉の生まれ
戦後は喜如嘉初等学校に入学、中学卒業後は父の下で大工技術を覚え、大工棟梁となる
終戦後は楠を採って下駄作りもした
また辺野古、辺野喜、奥間ビーチなどで家づくり建築に従事した
一九五〇年に「信広組」(2023年現在未確認)で働き、
腕が認められて二十五歳で棟梁となり請負をした
また父昌栄が小禄鏡地の飛行場に移ると「昌栄組」に二十年間大工として勤めた
復帰前、小禄鏡地一帯はアメリカの新築ブームが起こり、瓦や釘を探すにも競争が激化
民家の建築が主であったが、米軍基地や将校クラブでカーペンターとして勤めていた
ある時、友人の薦めで三線カラクイ作りを作ったことから、大工業を廃業した
棟梁として人を使うのが億劫になり、早めに辞めたかったので、二十年の大工業に終止符を打つ
以来、三線作りに専念するが、海が好きであったので、補助タンクを船にこしらえたり、
遊覧船の船頭として12年ほど海人を兼ねた
那覇市小禄に妻と二人で「平良三味線工作所」を経営
棹、からくい、バチも含め三線作りに専念
三線屋ではなく、工作所として看板をあげたのは、
大工、船作り職人としての自信からだった
皮はりは奥さんにも手伝ってもらっていて、人工張りは一日、本皮は二日を要した
漆塗りには十五日かかった(おそらく人工漆のカシュー塗りだったと思われる)
木にもよるが、乾燥させてから3〜5回塗り、
木が曲がったりしているところを埋めたりするのに十五日かかるのであった
当時、黒檀で作った三線の相場は5万円〜七万円
ゆし木は35000円、黒木は安くても15万円以上であった
八重山黒木は当時でも材だけで20〜30万円はした
フィリピン産黒木で15万であった
かつては拝所や屋部殿内から良い黒檀を得たことがあったが、山原にはもう全くなくなってしまった(平成の初めの話)
晩年は一日に一丁のペースで制作し、南米やアメリカからもお土産として注文がある
県人の多い神戸にも毎月2本ほど送っており、県内では沖縄市、八重山、与那国、西表からの注文が主だった
昌則氏亡き後、三男の進も三線作りに参加し、後継として活躍したが、体調不良となり、若くして逝去
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