「小学校4年の頃から三味線に興味を持ち、好きだった。
あちこちに行って職人が作るのをみていたよ」
照喜名さんは父が三線弾き、祖父もホーガーギー(雑木)で自分用の三線を作っていた
生まれながらに三線とともに育ったのだ
沖縄戦の前年、昭和19年に国民学校高等科2年を卒業、沖縄戦では義勇隊に編成された
十五歳に達しており、消防団にも加わり、軍の弾薬運搬や食糧運びを命じられた
区長を通して命令で竹槍だけを持って銃後を守る任務であった
焼夷弾投下で家屋が焼かれたが消火どころか死を待たなければならなかった
沖縄戦で南部は全焼、「艦砲ぬ喰えーぬくさー」(艦砲射撃の食い残り)
となって自分の屋敷に落ち着くようになる
終戦直後から軍作業に働き、通堂や那覇港で軍用車を積んだりした
1958年に軍作業を辞めて、三線作りに精出した
軍作業の傍ら、三線を制作していた
今の佐敷町(現在もある)に店を構えたのが1960年代
それから何十年間も大好きな三線一筋であった
当時は棹や皮はりはもちろん、糸かけや胴まで自分で作った
今は小道具は作らなくなった。しかし、棹から皮はり、仕上げまで
一貫して制作する数少ない職人の一人であった
てんてんとちんだみすると、予想以上に良い音がする。それが楽しい。
照喜名さんは、
良い音を出すには自分で音を作り上げること。伝統の型をさらに工夫していい音を作る。
でもなかなか計算通りにはいかない。今までで100パーセントはない
試行錯誤の連続、長年の経験から得たかんが頼り。と語った
朝福さんの右腕が息子さんの朝栄さんで、棹作りを一手に引き受ける(現在は静養中)
蛇皮や棹の材料となる黒檀が少なくなっており、黒檀を以前は八重山から取り寄せていたが
これが手に入らなくなり、山原からシー木を手に入れて間に合わせていた
フィリピンの黒檀は業者によって移入されており(現在では入手が困難である)、
材料に不足をきたすことは無くなっていた
三線は大量生産はできないため、名器となると三年かかる
かつての三線組合は解散(初代会長照屋政雄)、40人登録があったが実際には数人しか加わっていない状況であった
当時は組合賞とオキハム賞を受賞した(※この組合賞とオキハム賞に関してはオキハム社長が当時の組合の運営に対し自ら筆を取った書物で苦言されている箇所があるので興味のある方は調べてください)
自ら古典に興じ、優秀な技術者でもありその腕前は高く、県内外から高く評価された
「子供たちをお粥で育ててもいいから好きな三線の道を選んだ」と初心を貫いた
面白いエピソードとしては、私が持参した古三線の張り替えを依頼すると
「あんたの持っているこの三線は大変上等、張り替えが終わるまで少し弾かせてくれないか」
とお願いされることもあった
新しい三線よりも、どちらかというと昔のものにとても興味を持たれており
戦後首里城で行われた三線鑑定会にも顔を出しており、実際に合格した三線の見学にも出向いたという思い出話を語っていただいた
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