チャン小與那は裏世界の間でさらに有名になった?
著書「古三線に魅せられて」でも取り上げたチャン小三線ですが、「アーシぬチャン小」(泡瀬の喜屋武さん)と言って三線好きの間でよく知られる存在であった。
泡瀬と言っても、現在の泡瀬地区というよりは、高原十字路からコザ高校につながる坂道の途中に三線屋はあったそうだ。
ですから昔はあのあたりまでの広い範囲を泡瀬と呼んでいたのでしょう。
晩年はコザ十字路の方に移って小さなお店をしていたと、子孫の方から直接お話を伺ったことがありました。
大変に頑固な方で、一度琉球放送さんから古典の収録をお願いされたところ、「人前にでて三線を弾いて歌うとは何事か。三線はチャラチャラとしたものではない」と怒って突っ返したそうです。
チャンタンメーが亡くなって後に、一部の三線好きからその名が広まるようになった。
現在の沖縄市のNBC式場の近くに昔、骨董店があり、その店主が三線好きで、よく貴重で古いものを高額で売っていた。
そのお店にはいわゆる裏の世界と呼ばれる方も出入りがあり、特にチャン小三線が有名であった。
コザのドンと呼ばれた喜舎場のターリーさんがその與那を愛用すると、「あの方が持っている三線は喜屋武といって名工の作だったらしい。」という話が広まり、より広くその名が広まることとなった。
やがてそれは伝説化し、三線愛弦家の間で株が上がるように人気となった。一時は数百万円で取引されるほどであった。
やがてバブル期が終わりに差し掛かると古い骨董三線の人気も翳りを見せた。現在ではチャン作の三線もほとんど見つけることは難しい。
そして泡瀬の喜屋武の存在を知る人ももう少ない。
次回はバブル期で名器を手に入れた男たちのエピソードを紹介したいと思います。
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