決して表に出なかった三線工たち※平安の場合

沖縄本島中部地区に手の器用な男がいた
名は平安と言い、彼は宜野湾市で銃のレシーバー彫刻屋として生計を立てていた
当時の宜野湾の彫刻屋にはアメリカ兵がよく顔を出しては、自分のお気に入りのデザインを注文したりして、店はほどほどに繁盛していた
そんな平安が三線の道にのめり込むようになったのは、ある著名な古典音楽家との出会いであった
その古典音楽家は県内外をはじめ、海外にも演奏家として実力を誇る人物であったが、彼の耳に「腕の良い人物がいる」という噂が耳に入るまで、それほど時間はかからなかった
演奏家は平安にこんな提案をする
「三線の復刻をしてみないか?」
腕の良い平安なら、棹一本を作るのもお安い御用という感じであった
何度も試行錯誤を繰り返したあと、彼はある名器開鐘の復刻版を作り上げるのであった
しかも、完璧にである
演奏家はさぞ喜んで、それを100丁限定で復刻証明書付きで販売しようと計画した
100丁の三線は評判が高く、またどう言うわけか音も良いというので、飛ぶように売れたのだ
そこから平安の三線への探究が始まった
古い三線を全く瓜二つに作ります の売り文句に、同時の演奏家はこぞって店を訪ねた
なぜなら演奏家たちの不満というものは、三線屋に家宝の三線を持っていって復刻レプリカを作るようお願いしても、その職人のセンスをふんだんに取り入れるため、同じように作ってくれないわけである
そんな愚痴をこぼしてきた演奏家が大変喜んだのが、その三線の癖まで取り入れて作ってくれる平安のレプリカ制作法はうけにうけたのだった
また彫刻家としても優れており、芯に銘を彫り込むこともあったが、従来の三線屋よりも大変綺麗にいれてしまうため、一部では顰蹙もくらった
実はというと、彼の芯の名彫りは、後の名工の若手時代の手本やヒントを与えるきっかけにもなったのだ
平安は働き者であった。少しでも時間があると、何かを作り上げようとした
しかし、その無理がたたったのであった
まさにこれからも長く製作していくだろうという期待も虚しく、若くして逝去された
彼の製作した作品は200と言われている
そのどれもに復刻への思い入れが込められている
彼が亡くなってからもう随分と時が経った
彼の手がけた作品は、人気の三線屋であっても、修理で持ち込まれることはほとんどない
わたし自身も、これまでに三度拝めたが、それ以降は何年も見ていないが、先日たまたまといっていいほど、委託の依頼があり作品を拝めるに至った
なんとも品格のある八重山黒木のウジラであった

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